年末の退職エントリかと思った?
残念、さやかちゃんでした…ではなくて、 この記事は #jobchaner 転職LT Advent Calendar 3日目の記事です。 adventar.org
6年勤めた某みかか社→GAFAとその派生エントリ群が話題になっている最近ですが、そういう雲の上の話とは違うなんでもない話です。ここでは転職LT会が目指している集合知が誰かの未来に役立つことを願って、転職したときの昔話でも語ろうと思います。
幾億通りもの世界線の分岐を過去に辿り、悠久の時の流れを巻き戻し、舞台は20世紀末、日本のインターネットの夜明けが始まろうとしていた頃に遡ります。
大学の研究室ではMosaicブラウザがまだ標準装備。パソコン市場をWindowsで制しWebの世界も手中に収めんと魔手を広げる、若きMS社のInternet Explorer4と往年のNetscape Navigatorが全面戦争を始めるしばらく前。インターネットという新世界への入り口の小さな窓の向こうでは、原始的な検索エンジンたちが背比べをしていた頃へ……
- 年末の退職エントリかと思った?
- 就職
- 転職を思い立った流れ
- 紙駆動の転職活動開始
- 面接本番へ
- 退職までの流れ
- 転職活動で辛かったこと
- まとめ:就活の失敗
- まとめ:転職成功のポイント
- 今の時代に転職する方へ
- 元の会社のその後
- 転職してのメリット・デメリット
- オープン系ってなんぞ?
- 転職してその後どうなったの?
就職
苔むした渋谷キャンパスで知られる青山学院の理工学部の電気電子工学科にいた自分は人生というジャーニーの行く先にかなり悩んでいました。
理系に進んだものの文系が苦手なわけではなく英語も得意、大学でも文化系サークルのSF研究会で文章も書けたし教職課程も取っていました。専攻の電気電子工学は面白くなく、今の情報系学科は当時は経営工学科という学科でやっていましたが、入り直したら金が掛かって親の負担になります。まあよくいる未来に悩む若者の1人だったわけです。
就職活動スタートの2月か3月に、専攻を捨て、当時は学部内ではハード系に対応してソフト系と呼ばれていたIT業界に飛び込もうと決意、業界は一本に絞りました。当時が氷河期だったこと、自分の下地がなかったことからあまり大きい所を狙わず、最初に内定が出たのが6月ぐらいか。他を断ってうちに来てくれという内定辞退阻止のあれ、形式的な教授の推薦状をお願いされ、それを受けて早めに就活を終わらせました。
1997年春、入社したのはとある銀行のほぼ100%出資のシステム子会社。仕事はほぼ全て親の銀行から降ってきて、銀行のシステムを開発・維持している会社です。銀行のシステム部門が分社化したようなものなので、ユーザー系SIerと言ってもよいかもしれません。社員数は100人台のこじんまりした会社、銀行のセンター的な勤務地で、銀行員と一緒に働きます。同期は僕を含め大卒6人でした。
入社式を経て、ビジネスマナーを学び、情報処理技術の基礎を学び、現場に配属された頃から話は始まります。
転職を思い立った流れ
社会に出れば理想と現実が違うことは覚悟していましたが、だんだんと会社の様子が分かってくるにつれ、以下のような事柄に疑問を抱くようになっていきました。
定常作業、事務的作業の多さ
銀行のようなお固い保守的な企業でよくある話です。何をやるにも紙の書類を書いて承認を得、いわゆるハンコリレーの嵐。管理職の人たちにはこうした書類に文句をつけるのが主な仕事になっている人もいます。かなりくだらないことで何度も突っ返され、この時間に価値はあるのだろうかとよく思いました。そういう突っ返す仕事をしている管理職の人には言葉遣いが汚い人もいます。社内の決まり関連で理不尽なこと、くだらないことと当時の自分には思えた事柄で怒られることも多かったです。(これは転職後かなり減って、変化を実感しました。)
カイゼンが歓迎されたり、残業を減らして業務を効率化させる働き方改革が話題になる今よりずいぶん昔の話です。
会社及び仕事に関する技術的割合の薄さ
銀行のセンターのような建物の勤務なので周りは技術者でなく銀行の人も多いです。事務系の人、定常作業がメインの人も多くいます。21世紀の現在ではもうないデータ入力オペレーターのような職種もまだ存在しました。周囲で交わされる会話は業務の話がほとんどでした。部署によってはUNIXなどを使っていたところもありましたが、技術的な話題はかなり少ないものでした。
配属後のOJT(On the Job Training)をやってくださった2人の先輩はかなり優秀でしたが、下で述べる開発技術のレガシーさと重なって、エンジニアとしての成長が見込める技術的要素はかなり薄いと感じました。
開発技術及び開発技法のレガシーさ
無知な大学生には未知の世界だったのですが、銀行のシステムはIBM製の巨大な汎用機で動いていました。開発言語は手続き型言語で有名なCOBOLに比べるとマイナーなPL/I(ピーエル・ワン)。どのレイヤーでか拡張し、変数名に漢字が使えるような独自仕様になっていました。JCL(Job Control Language)という、今でいうバッチ処理の起動スクリプトのようなものを別の記法で同じ汎用機の中に登録すると、そこからPL/Iのコードが実行され、当時は存在すら知りませんでしたが後ろに存在したはずのIBM製のRDB、DB2の中のデータが更新されていきます。
コーディングは汎用機専用の端末でないと行えず、その席に行かないと作業できないし空いていないと作業できません。専用端末のディスプレイはあまり大きくないので、本格的にコードリーディングしたい場合は関連するPL/Iのジョブを全部一式印刷する必要があります。左右の端にパンチの穴が開いた用紙で大量の紙を使って印刷、空いた机の上に広げてコードの処理を追ってペンでメモを書いて…とかなり手間がかかります。
社員一人一人にはWindowsパソコンが配布されていましたが、社内ネットワークはありましたが当時流行の兆しを見せていた外部のインターネットには確かまだ繋がっていませんでした。自席のマシンではプログラミングに関わる作業はほとんどできません。確かOSはWindows95でしたが、当時は時々Excelが落ちたりまだ不安定でした。
ではインターネットに繋げないのに技術的な課題解決はどうやって調べるの?となりますが、その必要がほとんど発生しませんでした。上で述べたように仕事は業務の話ばかりで、技術的な要素がほとんど出てこなかったからです。
パソコン上のソフトウェアは当時はLotus 1-2-3はIBMに買収されて駆逐気味、文書作成は一太郎は健在、Microsoft Word, Excelはシェアを伸ばしていました。しかしプログラムの設計書はすべて紙で、長い年月を刻み込んだ巻物のようにファイリングされてキャビネットの中に鎮座していました。取り消しの二重線も新しく書いた仕様も承認のハンコも、コピーを重ねに重ねて掠れて見えにくくなっています。承認履歴には長い長い長い歴史が記されています。
90年代当時は日本でもまだバージョン管理ツールの考え方はあまり普及しておらず、コード及び設計書は上書きを繰り返す形で修正されていました。手続き型言語であるPL/Iは同じファイルを同時に2人以上が触ることはあまりなかったので、これでもあまり問題なかったのでしょう。
この「紙駆動開発」の辛みは、2000年代、2010年代に金融系レガシー開発を脱出して転職した人の体験談にもよく出てきます。自分がよく聞いているPodcast「しがないラジオ」のsp.19a、sp.42に詳しいです。これらの回のゲストお二人が経験したのは2010年代半ば、そして僕が経験したのは1997年。母体会社も銀行もまったく違い、約17年の差がありながらもやっていることがほぼ同じで進化していないというのは注目すべき点です。
インターネットで有名なものというと、匿名ダイアリーのこの記事。この話の10年後の2007年ですが、だいたい同じような金融系開発の現場が描写されています。
給与の問題
1年目なので給与が高いのか低いのかはよく分かりませんでしたが問題は残業。
IT業界は忙しいから残業が多い……とは聞いていて覚悟していましたが、申請しないと残業手当が出ないことが分かりました。ほとんどの社員はいわゆるサビ残を定常的に行っている状態です。
会社の将来性への不安
比較的年が近く親しくなった先輩社員たちと話していると、普段の会話の仕事の愚痴の延長のような感じですが、転職を匂わす話題が出ることが時々ありました。1年目の新人の前でこの話題が出るのは危険信号に見えます。
より年齢が高い自社社員、銀行サイドの人、休み時間などに観察していると会社の行く末を不安視するような会話も出てくることがあり、漠然とした不安を感じました。
当時僕の家は父が倒れて苦難の状況下にありました。長男の自分がどうあっても家を守る必要があり、安心して長く働ける企業であることは必須です。
下で述べますが、この予測は結局は的中することになります。
エンジニアとしての将来への不安
実務として実際のPL/Iコードの修正も行いました。おそらくOJTの人たちがスキルの低い自分でもできるような簡単な仕事をアサインしてくれたのだと思いますが、プログラムのロジック的な難易度はあまり高くありませんでした。
手続き型の言語であれば上から下に処理は流れますし、IF文などのアルゴリズムは他の言語と大体同じです。その後の世界では滅んだ命令といえばGOTO文もまだ健在でした。どちらかいうと時間がかかるのは、修正すべきなのは多数あるジョブの中のどれなのか、修正すべき項目はたくさん並んでいるうちのどれなのかを探す、あるいはJCLでいろいろ設定する、社内の面倒な手続き…などなどプログラムのロジックの高度さとは別の部分です。
当時の自分は春の第二種情報処理試験にぎりぎりで落ちる程度の能力しかありませんでしたが、そんな駆け出しでも、後何年かがんばって調べたらこのシステム全体のコードが大体分かってしまうのでは?と感じました。
ところが、会社での会話を注意深く聞いていると、あの人はもう何年もずっとやっているのにまったく中身が分かっていない、などと陰で低く評価される人も少なからず存在します。後で振り返って分かったのですが、そういう評価をされる人は主にバブル期の入社組でした。
果たしてこのような仕事をずっと続けて技術者として成長していけるのだろうか。疑問と不安感を抱えて大きい本屋に行っても、プログラム言語のCOBOLやPL/Iの本はなぜかどこにも見当たりません。
当時目を引いたのは、日本では「オープン系」という大まかな分類のキーワードでくくられた、CやC++の難しい本、UNIXのこれまた難しい本、後にWebの掲示板でよく使われるPerl、まだ速度の遅さがネックだった初期のJava、歴史が古いVisual Basic、まだ.NETに刷新され消える前のMS製のASPとVBScript関連、そして「ホームページ」というものへの入門書が徐々に増えていった頃。プログラミングの本は自分の技術力の低さもあいまって、難解な本が多かったのを覚えています。
コミケはすでに毎年開催されており後に自分も行くことになりますが、技術書典が開催されるのが2016年。わかばちゃんと学ぶシリーズやシス管系女子シリーズなど、わかりやすさを念頭に置いた本が生まれていくのはしばらく先です。
会社選択は正しかったのか?という疑問
推薦状で就職活動を早めに終わらせて入った、社員が100人台のこじんまりした会社です。上記のように不安要素は多く、開発言語も手法も古く、会社の様子が分かるにつれて手本にならないような社員もいるのが分かる。中には新人の自分にも見て分かってしまうようなお荷物社員の人もいました。
当時は就職超氷河期、理工学部には自分含め苦学生も多かったですが皆やればできる子です。就職浪人は最終的には0人、同じ研究室の友人たちも、今でも名前が通じるようなメーカーや大手企業、そのグループ企業に行っています。(ちなみにこの頃もハード技術の独自性などで売っている小さいけど凄い企業というのはありましたが、ITベンチャー系の登場はインターネットが花開く次の世紀まで待たなければなりません。)
情報系学部を出ていないというハンデ、自信のなさからこの会社を選びましたが、あれだけ苦労して大学を出た後で、果たしてこの選択は正しかったのかと思うようになりました。
あれは飲み会だったかボーリング大会だったか、自社の人か銀行サイドの人に「XXXくん、青学出てるならウチとかでなくもっといいとこにも行けたんじゃないの?」的なことを言われたことがあります。向こうにしてみれば酒が入った席でのほんの軽い冗談ですが、当時の自分にはかなり堪えましたね。今でも覚えているぐらい悔しくてたまりませんでした。
ちなみに他行は分かりませんが、この銀行は習慣なのか、みなイベントでボーリングをやるのが大好きでした。僕は下手でブービー賞を取っています。
考えを整理していくうち、自分は現在の能力が低いもののエンジニアの道を志した以上、技術を求める気持ちが強く、そして銀行という業務ドメインには興味が薄いことを再確認しました。入社して配属された5月か6月のことです。
世界線からの脱出を選ぶ
転職雑誌やマニュアル本を調べれば調べるほど、当時の自分の状況が精確に当てはまります。当時の日本ではその後主流になっていく相互運用性のあるUNIXなどの技術、広義では分散システムでWindowsなども含む技術を「オープン系」と称し、オープン系に対して金融系で使われていたほぼ対になる古い技術を「ホスト系」、「汎用機」もしくは「汎用系」、マシンの種類を使って「メインフレーム」、あるいは「業務系」、そして総称して「レガシー」と称し、転職雑誌はもちろんレガシー開発から未来あるオープン系への若いうちの転身を勧めていました。
システムの形態でも古いところは当時のあの会社のような大きな汎用機、普及していたのがパソコン側にもソフトのインストールが必要な「クライアント-サーバー」型。そして進んでいたところでは、2000年代のWebの時代に花開くブラウザ上で動く「Webアプリケーション」の原始的な形態が少しづつ広まっていた時代です。
COBOLのようなレガシー言語で1970年代からの伝統を保つ旧式の汎用機、変化の乏しい金融ドメインの開発をしていてはその企業でしか役に立たず、これからオープン系の21世紀に向けて大きく変わっていく世界には通用しない。
ではさらにマイナーなPL/Iは? しかも当時の会社ではそのPL/Iをさらにカスタマイズして使っている。本屋に行ってもPL/Iの本はどこにもない。机の上のパソコンではプログラミングができず、流行の兆しを見せていたインターネットにも繋がっていない、あの小さめの会社の中でしか通用しないであろうことが、大学卒業したての若造にも分かってきます。
飲み会やイベントはそれなりに楽しいけど、このままで良いのか? このまま先に進んでも、あのこじんまりした会社のあの部署で、一生あのシステムをメンテし続けるしかないのでは?
この停滞したPL/I世界線の先には緩やかな破滅しかない。
たとえ未来があるとしてもそれは銀行員としての未来で、ITエンジニアとしての未来ではない。
そう考えた自分は、このPL/I世界線からの脱出を決意しました。
観測者もいない孤独な脱出活動でした。
紙駆動の転職活動開始
さあ転職だ! ネットでググって…とはいきません。当時まだテレホーダイと呼ばれたネット接続回線はまだ普及の途中で、自宅はインターネットに繋がる環境にありませんでした。仮に繋げられてもググることはまだできません。(Google創業はこの話の翌年1998年。)
本屋に行って転職雑誌を買う
ガイドブック的なやつを含め何冊か読んだような記憶がありますが、主に読んだのは『エンジニアtype』という転職雑誌でした。
今は紙でなくオンライン上のサイト『@type』の中のエンジニアtypeというキャリア記事になっています。あれから20年、今見ると2chで有名なひろゆき氏の記事など、SIerを強めに批判して人材流動を促す刺激的な記事が目立つのが20年の時の流れを感じるところです。
親に相談する
当時は父が倒れて大変な状況でしたがまずは家族。両親に事情を話しました。最終的には、お前は自分で決めたことは止めても絶対やる子だし、そうしなさいと了承されました。
研究室の教授に挨拶する
半分相談、半分世話になった挨拶(あんまり世話になってないけど)ということで、お菓子を持って大学に行きました。事情を話すと言われたのは、予想通りですがまだ早いからもう少し待ってみないかという話でした。諺の「石の上にも三年」というやつです。
これはありがたく拝聴しておいて、でも従いませんでした。
この「石の上にも三年」は時代を問わず、若くして仕事に悩んだり転職したりする人は言われた人多いんじゃないでしょうか。ITエンジニアの世界では通用しない言葉でしょう。
またIT業界の変化の速さを表す言葉で当時「ドッグイヤー」がありましたが、これは21世紀に入るとあまり聞かなくなりましたね。
転職雑誌を読んで研究する
転職のテクニックについては雑誌に書いてあることを学び、実行するようにしました。コミュニケーションがインターネットを介さないだけで、面接のテクニックや履歴書の書き方などは今もあまり変わっていないのではと思います。
転職セミナーに行ってみる
当時も転職市場は活発、また氷河期ですが大卒就職がうまくいかなかった学生の受け皿として、採用を拡大している企業では第2新卒の採用も行われていました。このへんのセミナーで様子を見たりいろんな会社を見て回ったりしました。汎用機でCOBOLプログラマを募集している小さな企業とか(即退散した)、色々ありましたね。当時は自分の技術力が低すぎて技術的なキーワードはなかなかついていけません。
また驚いたのは学生と違い、社会人経験たった数か月なのにこちらを一人前の社会人として扱ってくれるところ。学生は就活で下に見られて舐められたりするものですが、転職戦線ではそれがありませんでした。スーツで堂々としていれば、社会人経験がもっと長く実績がある人と同じに見られるのだということを学びました。
ちなみに当時は転職エージェントというものの存在を知らなかったので使用しませんでした。当時からあったのか?というときっといたんでしょうが、たぶん相談が有料だから資金のない自分は使わなかったでしょう。
自分を顧みる
これは大学卒業したての新社会人特有の5月病的なやつではないのか? というのは自問自答しました。大学の教授か初期の面接でか、誰かに言われたかもしれません。実際、理想と現実のあまりの違いに目の前が嫌になった5月病的なところもあったでしょう。
それでも、よりよい未来の選択肢を選ぶための思いの方が強く、世界線の移動の準備を続行しました。またその後の面接では、仕事が嫌になった大卒新人と思われないよう、与える印象に注意することにしました。
面接の練習をする
就活時にセミナーに行った企業で第二新卒も募集しているところもあったので、受けたりしました。(落ちたけど)
そこで就活時のように再度面接慣れする必要があると感じ、当時の向こう側の企業には何とも失礼な話ですが、面接の場慣れの練習のためだけに、さほど重要度の高くない企業を受けたりしました。
転身すべき世界
閉塞した未来とPL/I世界線から脱出するのが最優先でしたが、どこへ行くべきか? 若者が目指し憧れるのは、常に未来です。
上述のように90年代の転職戦線ではメインフレーム (=ホスト、汎用機)によるレガシー開発から、「オープン系」という言葉でくくられた未来ある世界への転身がトレンドでした。
OSはUNIX系、広義になるとWindowsやMacも含む。ハードウェアはでかくて高いメインフレームからダウンサイジングしてパソコンやワークステーション。データの置き場所は21世紀には一般的になるRDB。クライアント-サーバー型の形態でユーザーの前に見えるユーザーインターフェースはGUI。プログラム言語はCやJava、Perl、Visual Basicなどの当時の最新技術が並んでいます。
1997年当時はWebアプリケーションはまだ原始的な形態だったので「Web系」という言葉はまだあまり聞かなかった気がします。あったとしてもオープン系の中に含まれるような形でしょう。そしてWeb系に含まれる技術も当時での最新技術、Java言語の最初期のJSP(Java Server Pages)、独自仕様が大好きな当時のMS社のVBScript言語のASP(Active Server Pages)などでした。
MS技術が集結した.NET Framework、PHPやRubyの登場、HTMLとCSSの進化、Flashの光と退場、JavaScriptの苦難からの復権の始まりは、次の世紀まで待たなければなりません。
まとめると当時のオープン系には次の時代を担うであろう様々な最新技術、言語が含まれ、漠然とした「未来」のイメージが共にあったのです。
当時の自分も勿論このオープン系の方向を目指しました。ではどの世界線への移動を目指すべきなのか? エンジニアとしての入り口に立ったばかりの自分にはまだ得意なプログラム言語もまだありません。選択すべき世界線も分かりません。それでも、学生時代を引きずった高い理想を求める気持ちと共に、未来を探し、自分はこの漠然とした「オープン系」という言葉に惹かれ彷徨っていました。
それはおそらく……この2010年代、今も続く汎用機系のレガシー開発の辛さ、現職の組織・プロジェクトの問題、SESや派遣の雇用形態の問題を抱え、現職の自分を過去に残し、漠然とした「Web系」という言葉に未来の希望を見出して転職活動に身を投じる若者たちと、本質的にはあまり変わっていなかったことでしょう。
経験の浅い若手も募集している企業を狙う
今でいうところのポテンシャル採用枠です。若いうちは入社してから力を伸ばすこともできるのは、あの頃から同じです。
雑誌を読んでいて目を付けたのがとある会社の広告でした。2010年代の現在の分類でいえばメーカー系SIerのくくり、実際には総合ITベンダー、そして当時は現在よりもテック寄りでした。
グループ企業の一社とR&D系の組織が合併して誕生して数年のフレッシュな会社、中途採用は今まで控えていたけど今後の事業拡大、来たるオープン系技術の時代のために募集開始。第二新卒も同時募集。
言語を問わず何かを作ってみたりした経験や未来のあなたに注目し、技術に対するどの程度の情熱を持っているかをポテンシャルとしたい。専門スキルは入社後の勉強次第でいかようにもなります。
電話、履歴書、職務経歴書、E-mailでやる気と技術に対する情熱をアピールしてください。最新、大規模、幅広さで勝負するなら絶好の機会です……と、当時の自分や第二新卒でリスタートしたい若手にぴったりのフレーズが踊っています。まだ大文字のJAVAやORACLE、WWWといった誕生したての煌めくキーワードが散りばめられています。
通勤は遠くなりますが社員数規模は約10倍、勤務地は首都圏なので転勤なし、メーカー系の子会社で基盤も将来性も十分。技術的には自分じゃ敵わないほど高いがそこはポテンシャルを……ということで、ここをターゲットにすることにしました。
メーカー母体の企業を選んだのは、当時の工学系学部→行くならやっぱメーカー系でしょ、という流れが大学時代の空気にあったからかもしれません。何はともあれ企業体力のある大きいところに潜り込めば、後はそこで頑張れば何とかなるだろう……と思っていた部分もあります。
(雑な考え方ですがある意味正しくもあります。企業規模のあるところなら中で異動しながらやっていく手がありますからね。)
当時の採用広告はお守り代わりに今もコピーを持っています。採用職種は「システムアナリスト」に「システムコンサルタント」、「プログラマー」に「システムエンジニア」に「ネットワークエンジニア」。マネジメントは今ほど重要視していなかったのか「プロジェクトマネージャー」は募集していませんでした。
「Webエンジニア」や「インフラエンジニア」、あるいは「プロダクトマネージャー」という言葉はまだありません。インターネット黎明期なので「フロントエンド」に至っては技術自体がまだ影も形もありません。
組織名やキーワードでも"インターネットビジネス"うんたらという名前があるのが面白いところ。今はもう空気のように遍在しているインターネットも、当時はこれから伸びるかもしれない技術の一つだったのです。
また、「経験も大切だが、ポテンシャルはもっと重要。ではポテンシャルって?」という感じの当時の応募者向けのキャッチフレーズも、今のWeb系スタートアップ系の若い企業さんの募集広告と本質はあまり変わっていないところも面白い。
現在の2010年代には認知の歪みからレガシーだとひとくくりにされがちなSIerも、当時は来たる新時代の夜明け前にありました。
履歴書に書けることはなんでも書く
キャリアが浅いので資格も実務経験も書けることが貧弱です。中学生の頃に触ったMSX規格のパソコンのBASIC言語も、卒業研究でなんかグラフを書いたもう名前も忘れた言語も、電卓か何かを作ったような気がするVBAも、ワープロ(ワードプロセッサ)検定を持っていることも、大学はサークルで会長をやったことも、第二種情報処理技術者試験(今の基本情報技術者試験)は落ちたけどポジティブに言い換えて"秋合格見込み"なことも、書けることは何でも書きました。
現職への不満はポジティブに言い換える
これは現在の転職記事や、僕が参加した転職LT勉強会等のアドバイスや退職エントリでもよく上がっている話です。結局は人と人でやるので、時代が違っても何も変わらない訳ですね。
停滞した破滅の未来が視えるPL/I世界線→もっとこれからの時代に必要な新技術を学び御社に貢献したいです! ホームページを作ろうと思ってインターネット技術も勉強中です! 最近注目を浴びているJavaという言語にも興味があります!
待遇や開発環境のつらみの話→すべて紙でずっと昔から続いてる開発で新しい学びがなくて…と始めて相手が共感したところで、実は残業手当もほとんど出ませんでしてそのへんも困っております……
という具合に、なるべく好印象で受け取られるように言い換えました。
エモい挨拶状を同封する
現在なら自分の価値のプラスアルファの部分をQiitaの技術記事やブログにTwitter、GitHubに上げたプロダクツでアピールできるところ、あの時代は手段がありません。
これは転職雑誌に書いてあったテクニックにあったのかな? お決まりの履歴書と職歴に資格だけでは味気ないので、ワープロの文章で思いのたけをアツくぶつけ、やる気と技術への情熱を見せた挨拶状をしたためて同封しました。
現在思うところあり転職を考えております。まだまだ力の足りない若輩の身ではありますが、意欲は誰にも負けないつもりです……! とエンジニアの世界の未来に賭ける、まだ技術のない若者の青臭いエモさ全開です。
90年代当時はデスクトップ/ノートPCから繋げるプリンタの他にもまだ国産メーカー各社のワープロが元気で、ワープロ自体の印刷機能で紙に打ち出すことができました。家にあったのは確かパナソニックの製品でした。
この挨拶状の原データは3.5インチのフロッピーディスクに保存してあり、ワープロ自体の機能でMS-DOS形式のテキストファイルに変換することが可能でした。挨拶状なのでプレーンテキスト、特殊文字も使っていないので恐らく問題ないでしょう。
ですので実家を探って現物を見つける→MS-DOS変換→1000円台の外付けフロッピーディスクドライブを買う→USB経由で...→とすればWindowsマシンにファイル名8文字の.TXTファイルとして移動して中を見られるはずです。
しかしながら、今の自分が見たらきっとあまりのエモさに悶死確定です。本案件については黒歴史として深く深く埋葬する旨で決定し、毎々お世話になっている各位におかれましては首記の件、拝承をお願い致したく。
面接本番へ
季節は7月か8月、当日も普通に仕事をしていました。周囲の目を気にしないようにして定時で脱出、電車に飛び乗り、中でカロリーメイトを齧ってパワーを補給して現地に向かいます。
ビルの入り口を間違えて向かい側の建物にエレベーターで昇ってしまい数分遅刻したのですが、なんとか面接へ。外はもう夜でした。
面接は何度か練習していたのでもう落ち着いていられる自覚はありました。ふと向こう側に目をやると、履歴書に交じって例のエモい挨拶状も人事の人がコピーして役員らしい面接官に配っています。作戦成功!と内心思いました。
相手は確か3〜4人、面接の受け答えはほぼ順調に進み、好感を持って受け入れられている感があったのでこれは行けるのでは?とこちらも内心で手応えを感じていました。
大学生の就職面接ではメーカー系だと「どうしてよそじゃなくウチを選んだの?」的な意地悪な質問が出てきたりすることがありますが、転職面接ではその手の志望動機をあまり聞かれなかったのは意外でした。技術書典5の同人誌『完全SIer脱出マニュアル』にもこの話の記述があります。
実際の仕事ではどれぐらいのステップ数のコードを直しましたか?という質問があり、ここはあまり盛らずに数百行か千行か、当時担当していたPL/I案件で答えました。すると「であれば弊社の新人と同じぐらいなので大丈夫ですね」と先方は得心して納得。えっこっちはCOBOLですらなくマイナーなPL/Iでしかもなんか漢字が書ける不思議なやつだけどいいの? と内心思ったのですがどうもOKで、開発言語を問わず実際の業務での経験があるのが重要だったようです。
(ちなみにオブジェクト指向の考え方が浸透して部品化・共通化・フレームワークの考え方が進み、コードの純粋なステップ数の意味がより薄れていくのは21世紀に入ってもうしばらく先の話です。)
後は仕事に関係ない質問は……XXX君はしっかり受け答えもできていてコミュニケーション力は大丈夫だね!最近のカラオケは何を歌う?的な質問を年配の人にされました。あの時は…大学を1年留年した分の学費を全部自分で払いきるためにサン●スで夜勤をしていたので、コンビニでよく流れてる曲はだいたい歌えますと当時の状況で正直に答えました。(歌えるのは当時だけの話ですよ)
面接終了後は人事の人に、だいぶ好印象だったのできっと行けると思いますというようなことを言われ、自分も何となく行けそうな予感を感じていました。
その後は別の機会にお決まりのSPI適性検査の筆記試験的なものをやりました。これは形式上のものですと人事の人に言われていましたが、実際、採用にはあまり影響しなかったようです。当時大卒で入ると筆記試験+面接+面接もう1回だったところ、中途採用は面接一発勝負で決まるのでコスパ的には良いですね。
そして晴れて内々定。第二新卒扱いで翌年春から、新入社員として入り直すような形も考えていたのですが、早い方がいいからもう秋から来てくださいということでした。
手続きのために訪れた際に人事の人にお祝いを言われました。
「おめでとうございます、最近こうやって金融系から脱出して流れてくる人が多いんですよーー」と。
当時の場面の会話で「脱出」というキーワードが実際に発話されたかはよく覚えてないのですが、似たようなニュアンスのことは確かに言っていました。
90年代当時からレガシーな金融系開発を脱出してより良好な企業、新世紀のオープン系の技術に着目していた企業へ転職する流れは既にあり、それが2000年代終わり~2010年代になると脱出先がいわゆるWeb系と呼ばれるより若い企業群にシフトしていった、という変化はあると思います。こうして『完全SIer脱出マニュアル』のようなタイトルの同人誌が生まれるわけです。
退職までの流れ
転職雑誌を見るとこの辺のことも書いてあり、強固な意志を持って対応するようあります。
内々定が出た翌朝に管理職の人にすぐ、相談したい大事なことがありますと深刻な顔をして申し出ました。ただならぬ様子を察してすぐ続きは会議室でとなり、事情を話しました。
そこで分かったのは、飲み会なりボーリング大会なり楽しいイベントはあるものの、仕事自体にはそれぞれの思う所あって辞めてしまう人はけっこういたということ。新人にはその辺の情報は伝わりにくくなるよう統制されていたのかもしれません。
気持ちは分かった、汎用機でないもっと新しい技術を使ったいい会社に行きたいということだな。しかし辞めてからその後はどうするつもりだ、と言われました。
そこで初めてカードを見せました。皆さんを騙すような形になりすみません。これまでずっと転職活動を続けてきました。もう内々定まで出ていますと。
これは相当驚かれましたね。次の会社まで決まってから辞める人は当時のあの会社には珍しかったようです。
その後は幸いにも(?)残らないかと言われ、引き留めるために会話、そして強固な意志を持って対応。さらに採用面接の時もいた役員の人が出てきて引き留めるために会話、そして強固な意志を持って対応。
退職が決定し、時期は8月末……でなく9月の前半だったはず、となりました。転職先は10月1日入社です。
辞めるまではこちらもやりにくかったですね。1年目とはいえ一応実務はしてたわけで、周囲にも事実がもう伝わった上で仕事の残りをしていく訳です。同期の子にも衝撃だったようで、隠しててごめんと謝って回りました。
GMARCH出の若造がわずか入社半年で会社に見切りをつけてもっと上を目指し、日本人なら誰でも名前を知ってるようなメーカー傘下に転職して出て行ってしまう訳です。こっちの会社や親銀行からしたら馬鹿にされてるようなものかも知れないですからね。(と、当時の僕には思えました。) 別に何もなかったけどなんとなく居心地が悪かったのは覚えています。
転職活動を通じてストレスはそれなりに感じていました。当時はエコ志向もまだ薄く、紙は大量印刷し放題、僕もまだ煙草を吸っていましたが、転職活動期間は本数が増え気味でした。
人づてに聞くと役員の一人が「銀行以外の仕事に興味が出たならなんで入社したんだ」的に僕を悪く言っていたそうですが、まあそれはまったくもってごもっともです。
最後の日は机を綺麗に拭いて、繋がりのあった人にはひとりひとり挨拶して回りました。銀行サイドの管理職レベルの偉い人たちは意外とみんな優しく、体に気を付けて達者でなという感じでした。向こうからしたら、社会の荒波の中をもう一度飛び立ち直す、よちよち歩きの雛鳥を見送るようなものだったのでしょう。
所属部署は外部からの派遣の人などでも入ってきたり抜ける時はイベントをする習慣があったようで、ありがたいことに僕の送別会+半分ふつうの飲み会的なものまで開いてくださいました。しかも道を違えて新たに旅立つ若者に向けて、最後は花束の贈呈付きです。
元気だった頃はバリバリの営業マンとして過ごしてきた父親にこの話をしたところ、ずいぶん優しすぎる会社だなと言われました。後になって振り返ると自分もそう思います。
こうして、個人レベルでは良き人々も多かった最初の会社を、自分は後にしました。
汎用機に支配された停滞した現在からなる、PL/I世界線からの脱出はなんとか成功したのです。
転職活動で辛かったこと
周囲を裏切っているという罪悪感
これが一番大きいですね。転職雑誌を見ると、働きながら転職活動するなら現職の誰かに話すと必ず漏れるから絶対に言わない方がよいとあり、これを最後まで堅く守り通しました。
実際規模の小さい会社で噂が伝わるのも速いので、これは守って正解だったと思います。新人歓迎会だったかの2次会のカラオケでうっかりエヴァンゲリオンの「残酷な天使のテーゼ」を歌ったら、翌日女性の先輩たちがみんな知ってて「女の噂話の伝達速度ってこえ~!」と思ったことがあります。
特に同期とはかなり仲が良かったので隠す方も辛かったですね。他にも新人研修の先生をしてくれた人やOJTの人たちや周囲の年の近い先輩、社と銀行サイドの調整役だった管理職の人、フレンドリーに接してくれた銀行サイドの人、個人個人としては良き人々も多くいました。自分のITエンジニアとしての未来と現在の世界線を天秤にかけ、未来の方を選択したのです。
連絡手段が電話や郵便
当時はスマートフォンはまだ完全にSFの世界の産物、二つ折り携帯はあったけど自分はまだ持っていませんでした。面接の調整などで必要な時は、紙を懐に忍ばせて昼休みに会社を出て、周囲を窺いながら近くの公衆電話ボックスで密かに連絡をする、という昔のドラマだと路肩の車で張り込み中の刑事に見つかりそうなシーンを実演していました。
仕事をしながら転職が必要
貯金は大学卒業時に尽きたので、転職先がないまま辞めちゃうと金がなくなります。とはいえ新卒1年目、残業はしたけどそんなに大した仕事もしてないし若く体力もあったので、定時後の転職活動は何とかなりました。
強烈な孤独感
SNSという言葉自体がまだ存在していません。人脈が広くてコミュ力の高い人なら大学の先輩のつてとか転職セミナーで誰かと親しくなって……などもあったかもしれませんが、最初から最後まで独り、自分を信じて意志の力で突き進んでやり通すしかありませんでした。
まとめ:就活の失敗
もっと考えて最初から自分に合った会社に行っとけという話ですが、以下になります。
自己評価が実際よりもだいぶ低く、入社できればどこでもよいと思ってしまっていた
人生という長いジャーニーの行く先に悩んでいた若者で、専攻科目の電気電子工学にあまり興味が持てずにいたので成績が悪かったこと(実際には思ったほど悪くなくて丁度真ん中へんだった)、必須科目を1科目だけ落として留年して自尊心を大いに失っていたことも影響しています。当時の理工学部で4~5人に1人は留年していました。2留のつわものも研究室の友人にいましたね。
そして影響が一番大きいのは、当時が90年代後半の就職超氷河期のど真ん中で、学生もみな戦々恐々としていたことです。
情報収集力の不足
確かセミナー24社参加、かなり活動した方でしたが結局は大して世の中を知らない学生のやることです。銀行系の汎用機レガシー開発のリスクもまったく知りませんでした。人脈がなかったのでOB/OG訪問のようなこともできませんでした。
まあ自分がアホだったのもありますが大学を出るぐらいの頭脳はあるので、やはり一番影響が大きかったのは、当時はインターネットの力がまだ使えなかったことだと思います。
企業によってはWebサイト公開・Eメール応募も受け付けているところもありましたが、大部分の学生はまだ紙ベースで就職活動していました。企業や業界の情報は、本屋の紙の本や学内の先輩からの限定的な噂などでしか得られませんでした。業界側・学生側の間での情報の非対称性はかなり大きかったと言えるでしょう。
まとめ:転職成功のポイント
- 運
- 若者ゆえの無謀な行動力、意志力
- 若者ゆえの根拠のない自分を信じる力
ぐらいしか思い浮かびません。後になって思い返すたび、あの超氷河期の中で半年であんな大きな賭けをよく最後までやり遂げたと思います。福利厚生のしっかりした大きい会社に転職して家を支えてくれたことは、その後もよく母に感謝されました。
卒業後にも研究室の友人たちとは時折渋谷で会って飲んでいましたが、1年目で転職した話をするとよく言われたのは「よく就活もう一度やる気になったね!」でした。それぐらい就活は、あの頃も学生にとっては辛くてめんどくさいひと仕事だったわけですね。
今の時代に転職する方へ
紙駆動時代の転職の辛みや自分の失敗をそのまま裏返すと、今の時代に当てはまるかと思います。
- 情報収集・自己分析にインターネットを有効活用しよう!
- インターネットを有効活用して、現場のエンジニアに会って生の話を聞こう!
- 転職活動の辛さはSNSやPodcastや勉強会で仲間を見つけて支えあおう!
- そして、インターネットの多すぎる情報の洪水に惑わされないようにしよう!
元の会社のその後
当時はまだ紙の年賀状を出す風習が一般的だったので、世話になった人と同期面々には1998年には年賀状を出しました。確かその後同期の女の子から手紙が来て、いろいろあるけど何とか元気にやってるよと返事したような覚えがあります。
その後はまったく連絡を取っていません。時代が変わった今、今でも前職の知り合いと楽しく飲みに行ってツイートしたり、アドベントカレンダーを書きあったり勉強会イベントで再会したり、ベンチャー界隈の中での転職で前職の人とも普通に接している人たちを見ると、自分には眩しく思えます。
会社の将来を不安視する内部の声があったのは的中し、僕が辞めた後何年か経った頃、親会社の銀行が他行と合併し、会社自体の名前がなくなってしまいました。内部ではおそらくシステム統合でいろいろ大変だったことでしょう。
今から約20年前の出来事ですが、社会に出た時の最初の経験としてあの半年のことは記憶に残っています。すぐ辞めてしまったこんな新人に半年間リソースを割いてくれた人々には感謝しています。エンジニアとしてのジャーニーの最初にあの経験があったから、自分はもっと強くなれたのです。
今でも顔を思い出せる、あの時の5人の同期はその後どんなジャーニーを歩んだのだろうか。
めちゃくちゃ厳しかったけど人づてに聞くと陰では僕のことを割と評価していた(らしい)OJTの女性の先輩は、あの後結婚したのだろうか、それとも独身のまま仕事を続けたのだろうか。
もう一人いたOJTの穏やかな先輩も、適齢期だったけどその後どうしたのだろうか。
同学の先輩、比較的年が近くて親しかった先輩たちはあの後もあの会社でずっと働いたのだろうか、それとも誰かは脱出に成功して転職したのだろうか。
確か小さい子供をお持ちだった、情報処理の基礎を叩き込んでくれた新入社員教育の講師のあの人はその後どうしただろうか。
銀行との調整役で苦労していたあの管理職の方は、そろそろ無事に定年を迎えられたのだろうか。
そして……世界がより速く、より大きく劇的に変わり続ける今、もはや旧世代の古文のようになったCOBOLよりも更にマイナーな古代の呪文の如きPL/Iのコードは、解読できる賢者もかなり少なくなったことでしょう。
あの短い間に僕が触ったあのシステムは、その後何かの機会にリプレースされたのだろうか。
それとも……今もなお、あの変化のない世界線の上で、
時を封じ込めたかのようなIBM製の大きな汎用機AS/400の中で、
今でもJCLから起動されてPL/Iのコードとして動き続けているのだろうか。
転職してのメリット・デメリット
社員数は1桁増して当時で7~8倍、新卒1年目の基本月給が5000円UP、残業手当が全額支給で当時は青天井、自分にまだ力がないにせよ会社が保有する技術力はかなり高……と、ほとんどのことが好転して上がりました。唯一下がったのは職場の女性率ぐらいですね。(銀行系の職場は事務員やオペレーターの人が多く女性がけっこういました)
前職は会社規模が小さいのと銀行系の文化か連帯感が強く、飲み会など各種イベントは絶対参加のような同調圧力的な空気感があったのですが、転職後はだいぶ個人志向になり、文化の違いを実感しました。
転職に使った「エンジニアtype」からは入社後に一度取材を受け、よくある若き転職成功者へのインタビューみたいな短いやつが一度雑誌に載りました。僕と同時期に入ったもうひとりの人と並んで写った写真が、その号の転職者募集記事の背景画像に使われました。(その雑誌はもう捨てちゃったな)
面接時は"秋合格見込み"と盛っていた第二種情報処理技術者試験(=今の基本情報技術者試験)は、秋に無事受かって体面は保てました。午後試験の選択科目のプログラミングは、PL/Iと文法が似ているCOBOLで突破しました。PL/IもCOBOLもその後仕事ではまったく使っていません。これからも使うことはないでしょう。
つい最近AWS Lambdaで好みの言語が使えるようになるCustom RuntimesサポートにCOBOLが含まれていることが話題になりましたが、まあ、使われるかは別の話です。
オープン系ってなんぞ?
90年代ではよく使われた「オープン系」という言葉は2000年代初頭までは使われ、その後はほとんど見られませんが、ぐぐると比較的古めの業界解説記事などで出てきます。汎用系/汎用機/メインフレーム/レガシーなどの「過去」の話と対になり、当時から見てより新しい技術を使った新時代の開発や新しめのキーワード、「未来」のイメージをひっくるめて含んでいました。汎用系/オープン系/Web系の3つのくくりに分類している場合もあります。
2010年代を生きる若手の皆さんには、「オープン系って言葉は知らないけど、この汎用機系とオープン系の話って、今のSIerとWeb系の話となんか似てるなあ」とでもちょっと思ってもらえると幸いです。認知の歪みから批判の文脈では時として全部「SIer is レガシー」でひとくくりにされがちですが、その中には2000年代のオープン系の時代、その前の古くは1970年代からずっと続いている汎用機の時代、複数の時代のイメージの融合・混合があるのではと分析しています。
転職してその後どうなったの?
仕事の方はどうなったか? 2018年現在のちょっとアヤしい格安スクールの宣伝で出てくる「わずかXXか月で未経験からWebエンジニアになりました!」的な嘘くさい体験談のように、転職して何もかもが綺麗にハッピーエンドになったか……というとさにあらず。
そもそも情報系学部も出ておらず、C言語もできないし卒研でなんか電流電圧のグラフ書いた程度の24歳の青二才のアホな若造(自分なのでこう書きます)が、そんなに簡単に一人前のエンジニアになれるはずもありません。
研修なしのいきなりの現場配属でUNIXの黒い画面の洗礼を受け、直属には恵まれなかったり周りが凄すぎたりで右往左往。様々な体験をしながら七転八倒四苦八苦、五里霧中の暗中模索。その中で原体験となるインターネットとの出会いを果たし、美しい日食のイメージが指し示す先に幻視したのは、オブジェクト指向とWebアプリケーション時代の未来。
何とかチャンスを掴んで這い上がり、自分の内なる武器を磨き、大企業特有の見えない引力を躱し、現場で会得した生存戦略を実行し、脱落せずに戦士として生き残っていくわけですが……
……
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……この続きは……
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…
ということでおながいします。😇😇😇😇😇
後編はsp.53b『SIer v.s. Web系の対立軸について本気で考えた、楽しい「SIer批判」批判』という、これまた攻めたタイトルになっております。😇
約20年というこれまでにないスケールでIT界全体の歴史を俯瞰でき、これまでのゲストの中でも数少ない現役SIerの立場からの話を聞けた、しばらく間が空く2018年最後の収録に相応しいエポックメイキングな回になった……と、生ガミ様&生ズッキー様が喜んでおりましたので、そゆことにしておきます。😇
記念に『完全SIer脱出マニュアル』にも著者陣の生サインを頂いてホクホクな収録でした。
う〜ん年が明けたらこの回がリスナーさんのもとに配信されて届いてしまう訳ですね。ワイ、考えただけで恥ずかしさのあまり順調に死亡予定………😇😇😇😇😇
https://booth.pm/ja/items/1038004booth.pm
我が家のぬいぐるみの猫のシューちゃんと一緒に記念撮影。(パシャ
ということで退職エントリと見せかけて昔の転職話でした。この話は登壇者が足りてなかったら転職LT勉強会などで発表しようかと思ったこともあるのですが、インターネットのない時代の紙駆動転職の話はいま転職活動中の人にはあまり参考にならないし、前座で笑いを取るぐらいだよなあと思い、アドベントカレンダーを機に改めてブログ記事にしてみました。執筆BGMはシュタインズ・ゲートなのだぜい。(^ω^)
次のアドベント記事はしばらく日数が飛んで14日目のリリー(xxlily)さんです!
(2019年追記) sp.53a/bはその後2月に配信され、多数の反響をいただきました。ありがとうございます!